みんな、ロケットボーイだった(5)―――夢はいつかかなう
2001年12月17日
鈴木 真二
アメリカのゴダードが独力でロケットを打ち上げていたころ、大西洋の向こうのドイツでは秘密兵器としてV−2ロケットが開発されていた。V−2の技術責任者こそ、のちにアメリカでアポロ計画の陣頭指揮を取ることになったヴェルナー・フォン・ブラウンであった。

●宇宙への夢

ヴェルナー・フォン・ブラウン(1912−77)はドイツのビルジッツ(現在はポーランドのビージスク)の男爵家に生まれた。第一次世界大戦でドイツは敗れたため、ビルジッツはポーランド領となり、フォン・ブラウン一家はドイツ領に引っ越した。ヴェルナー少年は学校の成績が特に優れていたわけではないが、母親がアマチュア天文家であった影響を受け、天文学には興味を抱いていたという。
ヴェルナーは父親の意向で、法律関係の中学に進学するが、中学の時に手にとった本が彼の人生を決定づけた。ヘルマン・オーベルト(1894−1988)の「惑星空間へのロケット」という本である。オーベルトはドイツにおけるロケットのパイオニアであった。11歳の時に母親からプレゼントされたジュール・ベルヌの「地球から月へ」に熱中したオーベルトは、13歳で、その本で出てくる大砲による打ち上げがナンセンスであることを数学的に証明した。「みんなロケット・ボーイだった(1)」で書いたように、大きな加速度がかかり、人間がつぶれてしまうことを看破したのであった。天才は早熟である。
1922年、オーベルトは宇宙飛行をテーマに博士論文を書くが、それはあまりにも時代に先んじていた。結局、大学からは拒絶されてしまう。しかし、これに懲りるような人間ではない。オーベルトは翌年、その論文を多少読みやすくして出版した。この本が、ヴェルナーが感化された本である。もともとが博士論文である。中学生のヴェルナーには、その数式は全く歯が立たなかったのも当然であった。第一、数学は苦手な分野であった。
ヴェルナーは先生に助けを求めるが、数学の先生は、「もしロケットに興味があるのなら自分でその式の意味が分かるまで勉強しなさい」と突き放した。ロケットに魅せられたヴェルナーは、その本の内容を理解したい一心で、苦手な数学に取り組み出した。まさに「一念、岩をも徹す」の言葉どおり、ヴェルナーの数学能力は先生の代役を務めるまでになった。
当時のドイツでは「ドイツ宇宙旅行協会」が大学生を中心に結成されていた。オーベルトの著書に触発されたロケットマニア達が集まって作った組織である。まだ、高校生であったヴェルナーは友人のロルフ・エンゲルを誘い、協会に参加した。1928年、ヴェルナー16歳の時であった。1930年、ヴェルナーは父親の思惑をふりはらい、ベルリンの工科大学に進学した。そしてオーベルトの指導のもとで進められるアマチュアのロケット製作を手伝うようになっていった。ヴェルナーのロケット開発の始まりであった。
ドイツ宇宙旅行協会は、1931年、ついに独力で液体ロケットの打ち上げに成功する。しかし、時代は世界恐慌による経済不況にみまわれ、ドイツではナチスが台頭する。経済的な問題に加え、ナチスの監視が厳しくなり、ドイツ宇宙旅行協会は解散に追い込まれる。ヴェルナーたちは結果的には軍部に与(くみ)し大型ロケットの開発を続けることになる。
第一次大戦後のヴェルサイユ条約で軍備上の強い制約の課せられたナチスドイツは、規制の網のかかっていなかったロケット兵器に目をつけたのであった。これがV−2ロケット開発につながった。ゴダードのロケットを無視したアメリカとは大きな違いである。

図1 フォン・ブラウンが技術責任者として開発したV−2(資料:NASA)

●ロケット・ボーイズのライリー先生

高校時代のヴェルナー・フォン・ブラウンの様子を読むと、本シリーズ第一回「みんなロケット・ボーイだった(1)」で紹介した映画「遠い空の向こうに」のヒッカム少年が思い起こされる。
旧ソ連が人工衛星スプートニクを打ち上げ、アメリカ中がスプートニクショックに覆われる中、ウェスト・バージニアの小さな炭鉱町に住む高校生ヒッカム少年は、手作りのロケットの打ち上げをめざす。失敗を繰り返す物騒な実験は、すぐに校長に目を付けられることになる。少年たちの活動を守ってくれたのは、高校の化学の先生、ミス・ライリーであった。
ライリー先生は、ヒッカム少年らのロケットを全米科学フェアーに応募することを提案する。彼らの活動を正当化するためであった。そして、ヒッカム少年にロケットに関する専門書をわざわざ取り寄せプレゼントする。大学で正規の工学教育を受けた技術者のために書かれた本であった。映画では省略されていたと思うが、原書「ロケット・ボーイズ」では、ライリー先生は「わたしはその本を渡すだけ。その中に書かれていることを学ぶ勇気は、あなたが持たなくてはならない」といってその専門書を渡したとなっている。
勉強は苦手なヒッカム少年であったが、オーベルトの学位請求論文を読破したヴェルナー・フォン・ブラウンのようにライリー先生から渡された専門書をむさぼるように読んだ。あまり映画のことを書いてしまうとまずいのだが、失敗続きであった彼らのロケットは、最後にはインディアナポリスで開催された全米科学フェアーで金賞を受賞するまでになる。
ヒッカム少年の父親は炭鉱の管理職であった。すでにアメリカでは炭鉱は斜陽であったが、父親は息子に自らの築いた道を継がせようとする。父親に反発する少年は、ロケットに新しい人生を夢見る。たび重なる挫折からヒッカム少年を励ましたのがライリー先生であった。
科学フェアーの後、少年たちは町中の人たちが見守る中、ミス・ライリー号と命名されたロケットを打ち上げる。ホジキンス病が悪化したライリー先生は病室の窓越しでしかロケットの打ち上げを見ることができなかった。ライリー先生は生徒の手を借りなければ教壇にあがれないほどになっても教える情熱は衰えなかったが、32歳の若さで世を去ったという。
映画の最後に実物(この映画は実話である)のライリー先生の古い8ミリ映像が一瞬だけ写しだされた。ライリー先生は配役の女優にもまして魅力的であった。試写室で見ていた私は涙してしまった。

●夢はかなえられる

ナチスドイツで忌まわしい無差別殺戮(りく)ロケットV−2の開発に携わったヴェルナー・フォン・ブラウンは、戦後アメリカに移り、宇宙飛行の夢をアポロ計画によって遂にかなえた。一方、ヒッカム少年も高校時代の夢を追い求め、NASAで働く技術者となった。
NASAで宇宙飛行士の訓練に携わったヒッカム氏は、引退間際にあるものをスペースシャトルで宇宙に持っていくように日本人宇宙飛行士の土井隆雄博士に依頼したという。メダルとふるい部品である。宇宙からの帰還後、土井さんに話を聞いたときにはその話題はなかった。土井さんもヒッカム氏の本「ロケット・ボーイズ」が出版されてからその真相を知ったそうである。メダルはもちろん科学フェアーのもので、古い部品はミス・ライリー号のパーツに違いない。
「子供に遺せるものがあるとすれば、心に遺せるもの、それは教育である」とはフォン・ブラウンの言葉である。人類が積み重ねてきた英知を教授するのは教育者の役割であることはもちろんであるが、若者に勇気を授ける重要さを私は改めて学んだ。いや、若者から勇気や希望を学ばなくてはならないのは、われわれ自身である。

図2 スペースシャトルの打ち上げ(資料:NASA)

【資料】

1.的川泰宣、月をめざした二人の科学者、中公新書1566、2000.
2.R.ヒッカム、ロケット・ボーイズ、草思社、2000.

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プロフィール

鈴木 真二 (すずき しんじ)
1953 年岐阜県生まれ。1979 年東京大学工学部航空学科修士課程修了。 同年 (株) 豊田中央研究所入社。 1986 年工学博士。同年東京大学工学部助教授、1996 年同教授。 専門は飛行力学。 著書は「現代の航空輸送」 (共著:勁草書房) 、「マルチメディア航空機図鑑」 (監修:アスキー) 、「力学入門」 (コロナ社) など。 日本航空宇宙学会理事。

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