ヴェルナー・フォン・ブラウン(1912−77)はドイツのビルジッツ(現在はポーランドのビージスク)の男爵家に生まれた。第一次世界大戦でドイツは敗れたため、ビルジッツはポーランド領となり、フォン・ブラウン一家はドイツ領に引っ越した。ヴェルナー少年は学校の成績が特に優れていたわけではないが、母親がアマチュア天文家であった影響を受け、天文学には興味を抱いていたという。
ヴェルナーは父親の意向で、法律関係の中学に進学するが、中学の時に手にとった本が彼の人生を決定づけた。ヘルマン・オーベルト(1894−1988)の「惑星空間へのロケット」という本である。オーベルトはドイツにおけるロケットのパイオニアであった。11歳の時に母親からプレゼントされたジュール・ベルヌの「地球から月へ」に熱中したオーベルトは、13歳で、その本で出てくる大砲による打ち上げがナンセンスであることを数学的に証明した。「みんなロケット・ボーイだった(1)」で書いたように、大きな加速度がかかり、人間がつぶれてしまうことを看破したのであった。天才は早熟である。
1922年、オーベルトは宇宙飛行をテーマに博士論文を書くが、それはあまりにも時代に先んじていた。結局、大学からは拒絶されてしまう。しかし、これに懲りるような人間ではない。オーベルトは翌年、その論文を多少読みやすくして出版した。この本が、ヴェルナーが感化された本である。もともとが博士論文である。中学生のヴェルナーには、その数式は全く歯が立たなかったのも当然であった。第一、数学は苦手な分野であった。
ヴェルナーは先生に助けを求めるが、数学の先生は、「もしロケットに興味があるのなら自分でその式の意味が分かるまで勉強しなさい」と突き放した。ロケットに魅せられたヴェルナーは、その本の内容を理解したい一心で、苦手な数学に取り組み出した。まさに「一念、岩をも徹す」の言葉どおり、ヴェルナーの数学能力は先生の代役を務めるまでになった。
当時のドイツでは「ドイツ宇宙旅行協会」が大学生を中心に結成されていた。オーベルトの著書に触発されたロケットマニア達が集まって作った組織である。まだ、高校生であったヴェルナーは友人のロルフ・エンゲルを誘い、協会に参加した。1928年、ヴェルナー16歳の時であった。1930年、ヴェルナーは父親の思惑をふりはらい、ベルリンの工科大学に進学した。そしてオーベルトの指導のもとで進められるアマチュアのロケット製作を手伝うようになっていった。ヴェルナーのロケット開発の始まりであった。
ドイツ宇宙旅行協会は、1931年、ついに独力で液体ロケットの打ち上げに成功する。しかし、時代は世界恐慌による経済不況にみまわれ、ドイツではナチスが台頭する。経済的な問題に加え、ナチスの監視が厳しくなり、ドイツ宇宙旅行協会は解散に追い込まれる。ヴェルナーたちは結果的には軍部に与(くみ)し大型ロケットの開発を続けることになる。
第一次大戦後のヴェルサイユ条約で軍備上の強い制約の課せられたナチスドイツは、規制の網のかかっていなかったロケット兵器に目をつけたのであった。これがV−2ロケット開発につながった。ゴダードのロケットを無視したアメリカとは大きな違いである。