チオルコフスキーは9歳のとき、しょう紅熱のため聴力を失った。学校も退学し、母親から教育を受けるが、その母親も彼が12歳で亡くなった。チオルコフスキーは、それでも父親の持っていた数学や科学の本に興味をもち、いろいろな実験を繰り返す。
父親は彼の才能をおしみ、16歳になったとき、モスクワに下宿させた。正規に学校へ行けたわけではない。図書館や本屋にこもり、数学、物理、化学、天文学など次々に制覇した。わずかな仕送りによる孤独な生活であったが、「大空や宇宙にあこがれた」チオルコフスキー青年にとっては勉強が至上の喜びであったに違いない。
19歳で故郷にもどったチオルコフスキーは、食費も切り詰めた生活のため、すっかりやせ衰えていた。それでも、近くの子供たちの家庭教師を始め、21歳のときには中学教師の資格試験に合格し、モスクワに近いボロフスクにおいて数学・物理の教師となった。教師のかたわら彼は研究を行った。物理や化学の論文を書くまでになり、その成果は学会でも高い評価を得た。彼は念願の「大空や宇宙を飛行する」研究を開始する。
驚くべき広い科学知識に裏打ちされた彼の研究は技術の理想主義でもあった。彼が考えた飛行船や飛行機は当時の技術レベルを超越した金属製の流線形の機体であった。彼にとっては、重いエンジンを載せた実用的な乗り物を考えた場合の当然の帰着であった。ただし、あまりにも先進的な設計ゆえに、ロシアの役人からは完全に無視された。しかし、技術は彼の構想のように進歩する。金属製の飛行船はドイツのツェッペリンによって10年後の1900年に完成し、金属製の流線形航空機も数十年後には出現した。
研究資金は得られなくとも、ロケットは彼の頭の中で理想的な形として育まれていた。1897年にはロケット方程式を導き、1903年には、「反動推進装置による宇宙探査」という論文を完成させた。ライト兄弟が初の動力飛行に成功した年である。彼は最初から有人宇宙船を考えていた。そのために、推力を自由に制御でき、効率の良い液体ロケットが必要であるとした。燃料に関しても研究を進め、液体水素と液体酸素がすぐれ、それらを燃焼室の冷却に使用するというアイデアも提示している(図1)。